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UZ通信

カラダ・アタマ・ココロの遊び

塾講師の仕事、始めました⑤ ー教育の目的とは、なにか・幸せとは、なにか

教育の目的とは、なにか。

僕が行き着いた答えは、「幸せになれる人を育てること」。幸せになる、というのは誰にとっても自己実現だからです。僕は幸せになりたいし、他の人もそうでしょう。

手段と目的という話でいけば、前回書いた「挑戦する勇気」は手段であって、目的ではありません。挑戦するために、挑戦するのではなく、その先にある自己実現のために挑戦します。そしてそれらが向かう先は、個々人の幸せであるはずです。

一方、幸せは手段になりません。「なんで幸せになりたいの」という質問はこの世界にあるんでしょうか。面接で聞かれたら、「自分が幸せだと、人に寛大な気持ちで接することができるから」とでも答えればいいのでしょうか。

ただ、人に寛大な気持ちで接する目的は、そうすれば自分が満足するからで、それは自分の幸せにつながっていると言えるでしょう。この質問を聞かれたら、答える前に逆質問します。

「自分で決められる子を育てること」
会社として掲げている方針が関係しているのか、働いている同僚の先生方の中には、これを「教育の目的・ゴール」としている方もいました。

この話を聞いたとき、たしかにそれ大事だよなあと思ったものの、それも手段じゃないかと考えました。自分で決められても、不幸になったら仕方ないからです。やはり、その先には、本人の幸せがあるはずです。

もしかすると僕の言っていることが当たり前すぎて、もう大前提なのかもしれません。また、「幸せになれる力」が、具体化された目標が「自分で決める力」の可能性もあります。

これは答えがない問いなので、最終的には価値観の違いになってきますが、僕は「幸せになれる人を育てること」が、教育の目的だと考えました。

じゃあ「幸せになれる人を育てること」は、簡単なことか。そもそも、「幸せになること」は簡単なことか。

そんなことないはないでしょう。自分にとっての幸せは何か、どんな状況かを考え、そこ向かって計画を立て、行動を積み重ねることが簡単だとは思えません。

暖かくて美味しい松屋の牛丼、高機能でリーズナブルなユニクロの服、友達とのシーシャでのおしゃべりである程度満足はしています。連載を書いたり、ノルウェイの森を読んだり、榛名湖マラソンに参加することで、ある程度幸せを感じることはできます。

それでも、何か物足りない。

これは、とても恵まれている証拠でもあります。国が戦争状態になく、民主主義の法治国家で、自由な発信ができて、受けたい授業を受けられて、好きな服が買えて、三食十分な食事を食べられて、長期休暇には旅行に行けるのに、中途半端な満足感の自分。

「お前、足るを知れよ」
久しぶりに見つけたマンモスを仕留めきれず、11月の雨に打たれながら肩を落として妻子のもとへ帰る僕の先祖様は、そう思うことでしょう。

しかし、ある状況に満足すると、次の満足ステージを求める。それが人間の性です。

今、開発途上国で飢餓に苦しむ人はカロリーの摂取に、先進国で肥満に苦しむ人はカロリーの消費に必死です。先進国の中産階級はお金を稼ぐのに、世界の大富豪は慈善事業に必死です。

さて、幸せになるためには何が必要か。その力をつけるために、教育で養うべき力とは何か。だんだん幸せ論にシフトしているのを感じています。戻れるかな。

先日「教育の目的」についての考えを、親しい後輩に話しました。明日はそれに対する彼の反応と、改めて考えたことを書き、連載を締めくくります。