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UZ通信

カラダ・アタマ・ココロの遊び

地元への愛着はどこからくるのか

雑感

僕の実家は千葉県北西部に位置する、郊外の住宅街にある。市内にはバスも電車も通っていて車は必要ないし、お店も学校もすぐ近くにあって、比較的住みやすい街と言えるだろう。小中高と公立の学校に進んだ自分は、人生の大部分の時間をそこで過ごしたことになる。

 

先日競馬を機に、実家に立ち寄った。これはその時に考えたこと(茂木さんが毎日アップする、即興ツイートのようなことしたい。僕があれを書くには1日要しそうだけど)。

 

実家でご飯を食べ、簡単な近況報告をし、すぐに乗ったバスの中で思ったんだけど、地元への愛着って何で決まるんだろう。土地が栄えているかどうか。地域の祭りが有名かどうか。隣人との結びつきが強いかどうか。

 

ちなみに、僕は地元への愛着がほとんどない。地元はそれなりに好きだし、いい場所だとも思う。関わった人には恵まれたし、今も繋がりのある友達も先生もいる。ただ、故郷を愛する気持ちみたいなものはあまり強くない。

 

実際、実家に行っても大抵は0泊か1泊で今住んでいる家へ帰る。あっつい風呂が炊けていて、美味しいご飯が出てきて、食器洗いも洗濯も自動でなされる実家は快適だし、地元の風景も匂いも好きだけど、一瞬で離れることが多い。

 

だから、たまに大学の友達が「実家になるべく帰ってたい」「地元を元気にしたい」等と言ってるのを聞くと、そういう気持ちが芽生えるのって素敵だなあと思う。中学3年時になぜか歌わされた「ふるさと」の風景はイメージできるけど、自分の体験と結びつけることは僕には難しいし、そういった気持ちになることもないから。

 

だからなんだって話だけど、そういった気持ちがどこから生まれるのかには興味がある。どうして彼は地元に愛着を感じ、僕は感じないのか。

 

一つの仮説は、地元とのコントラストがある人程、地元への愛着が湧くのではないかというもの。海外に行って2、3週間もすると、白いご飯や24時間営業のコンビニ、清潔なトイレが懐かしくなるように、生活環境における地元とのコントラストが大きい人ほど、愛着を感じやすいのかもしれない。美しい大自然に囲まれて育った人にとって、山がビルに、川がコンクリートに置き換わった環境は、あまりに違う。彼らは離れて初めて気づく、地元の特徴が際立つことで、愛着が生まれてくるのかもしれない。

 

もう一つの仮説としては、地元が衰退しているかどうかが関係している説。帰省のたびにお店が閉まり、人影は減り、母校の規模縮小が進む。そんな状況だったら、僕もさすがに寂しくなるだろう。小学時代に暗くなるまで遊んだ公園や、中学時代に好きな子と並んで座ったブランコ。10代の集大成である高校の校舎が取り壊されるとなったら、確かに嫌だし、活気を取り戻そうとするかもしれない。

 

ただ、仮に僕が海外駐在になり、学校は消滅の危機を迎えて地元に愛着を持ったとしても、その愛着は美化されたものによるはずだ。苦しかった記憶はいい経験として都合よく仕立てられ、楽しかった記憶は幾分洗練されて保存されることが多いから。

 

過去の記憶もよくよく思い出すと、嫌なこと、苦しいことの方が多かったりする。小中と1000回以上は従ってきた「小さく前え習え」は謎だったし、敗戦時に走らされた100m100本ダッシュはどちらかといえばやりたくなかった。小中学校は特に家と学校以外に行き場がない状況に息苦しさを感じていたし、戻りたいとは思わない。

 

地元がいい、いいと言っておきながら都会で暮らす人が多いのは、それに近い状況だと思う。地元に広がる景色は綺麗だし、空気は美味しいし、いい所も絶対ある。ただ、やっぱり色々と不便だったりするし、暮らすには大変なことも多い。だから、たまに帰る心の拠り所みたいな位置で落ち着くことが多いんだろう。

 

まあ、確かに朝の山手線に10分も乗っているともうすこし人口密度が低い場所で過ごしたくなるし、コンビニの無味乾燥なやりとりに虚しくなって地元の駄菓子屋さんを懐かしむ気持ちもわかるんだけど。

 

何が言いたいのかわからなくなってきたけど、結局地元にも今の居場所にもいい点、悪い点があるんだけど、今住んでいる所の良さか地元の欠点を差し置いて地元の良さを捉えた時、そこから愛着がわくのかな。

 

 

 

いつか僕もクアラルンプールやドバイなんかで働いた時に、「秋津最高だぜ」ってインド人エンジニアに語ろう。 

bizmakoto.jp

 

インドトーク倍返しで1日潰れるだろうな

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