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UZ通信

カラダ・アタマ・ココロの遊び

父との儀式 ー他責にしそうになった時、思い出すこと

雑感

まだ僕が小さい頃、寝る前に両親とおやすみのキスをする儀式(といっても一瞬だけど)があった。自分の子供そうするお母さんは珍しくないし、僕の母もその一人だったということだ。僕の母の場合、歯茎がとれるんじゃないかという強さだったので毎晩試練だったことは確かだけど、愛情は感じていたし、母との儀式はいいとしよう。

 

一方、父との儀式はなんの意味があったのか。なぜ開催されるのか。理由はわからないが少なくとも僕は嫌だった。お酒を飲んだ父から漂うアルコールの匂いが苦手だったし、夜になってザラザラしたヒゲに触れる感覚が嫌だったし、そもそも無条件で父は怖い存在だったから。 

 

じゃあ父はといえば、こちらも面倒くさそうだった。自分の仕事と全く関係のない資料のコピーを取るみたいな、街の清掃活動に駆り出された小学6年生がゴミを拾うときみたいな、仕方なくこなす作業の一つという感じで僕との儀式に臨んでいた。

 

今、この構図を振り返ってみると、あれは母のための儀式だったと推測できる。父と僕が形式的であれ、親密な関係にあることを喜んでいたのは母だったろう。実際、母に促されていたし。

 

じゃあこれが、100%母のためだったかと言うと、それは違う。父と僕は未来を予測し、自分自身の利益最大化のために行動していたからだ。

 

40近い父と3歳の僕は、概ね同じことを考えていたように思う。

 

父「ここで指示通りに動けば、お母さんの機嫌がよくなる。お母さんの機嫌がよくなれば、家も綺麗に保たれるし、好きなお酒を買ってくれるかもしれない。家ではお母さんが全てなんだ。従え自分」

 

僕「ここでいうことをきいたら、おかあさんのきげんがよくなる。おかあさんのきげんがよくなれば、レゴをかってもらえるかもしれない。おかあさんのいうことはきいたほうがいい。 したがえじぶん」

 

こうして、父と僕は望まない(巡り巡って望んでるけど)儀式に臨むわけだ。

 

つまり、2人とも自分自身のために任務を遂行していたわけである。

 

A(父)もB(僕)もイヤイヤやってるのは、C(母)のためだと思っているけど、実際はA自身、B自身のためだった、みたいなことってよくありますよね。

 

色々思う所はあっても最終的には自分のためにやっている、と認識することが他責にしないために、大事なポイントだと思います。他責しそうになった時は、父との儀式を思い出してみます。

 

※尚、やっていることが嫌で、最終的にも自分のためでもないなと感じたら、辞めることも大事です。

 

春学期終了。明日は春学期ネイバーまとめ

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